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一般社団法人

日本在宅医療連合学会


安中 正和さん・医師

安中外科・脳神経外科医院院長

 

【PROFILE】

やすなか・まさかず

1995年、久留米大学医学部医学科卒業。聖路加国際病院で研修医をへて、1997年から同院脳神経外科医師。2001年、日本脳神経外科学会の脳神経外科専門医を取得。2005年、開業医の父の死去に伴い故郷の長崎市に帰り、実家の診療所を承継し現在に至る。長崎在宅Dr.ネット理事、日本在宅医療連合学会理事を務める。


患者・家族が悔いを残さない療養生活を有床診療所で支援

大学卒業後、東京都心の急性期病院で脳神経外科医として勤務していた安中さん。脳外科医としてこれからというときに、実家の診療所を引き継ぐことになり長崎市に帰郷しました。それまで診療所の経営など考えたこともなく、手探りで生き残る道を探るなかで出合ったのが在宅医療でした。病診連携の重視と主治医副主治医制を提唱する長崎在宅Dr.ネットに参加するなかで、患者や家族のことを熟知した在宅医として、有床診療所のベッドを生かして、今では介護医療院、介護保険のデイサービスや障がい者福祉の生活介護事業所を併設するまでになりました。東京時代に叩き込まれた全人的医療を在宅医療で実践しています。


急遽、故郷の有床診療所を承継、在宅医療の道に

――都内の急性期病院で脳神経外科医としてお勤めだったのが、在宅医療に転身したきっかけはどういったことだったのですか。

安中 大学卒業後すぐに聖路加国際病院で研修をしてそのまま脳神経外科医となりました。脳神経外科専門医の資格をとってバリバリ手術をしていたのですが、長崎で有床診療所を開業していた父が急逝し、そこを引き継ぐことになりました。実家の診療所は法人化していなかったため承継するかどうかをすぐに決めなくてはならず、亡くなってから2日で決めて長崎に戻りました。

 

──突然の帰郷だったのですね。

安中 父は白血病でしたし、私もいつかは跡を継ぐだろうと漠然と考えていましたが、こんなに早く現実のことになるとは思ってもいませんでした。当時37歳で脳神経外科医として脂が乗ってきた時期でもあったので正直悔しい思いもありましたし、聖路加国際病院には突然の退職のために大変にご迷惑をおかけしてしまいました。

 

──そのとき実家の診療所はどのような状況だったのですか。

安中 父は白血病のために週に一度は輸血を受けている状態だったこともあり、外来は閑古鳥が鳴いているような感じでした。実家は有床診療所でしたので入院ベッドがあり、一部を介護療養病床にしていたのですが、いわゆる社会的入院が多い状況でした。急性期病院で働いていた感覚からすると、どうしてこういう人が入院しているのかという感じでたいへんなカルチャーショックを受けました。

 

──安中先生は引き継がれてからどのような診療活動をされたのですか。

安中 暇だったので、外に出ていくしかないと思いましたが、私は地元大学の出身でもありませんし、地域のことを全然知りませんでした。そこで、父と関係のあった近隣の急性期病院に、私の興味が強かった脊椎の手術に入らせてもらったり、病棟カンファレンスなどに参加させてもらったりして、少しずつ顔をつないでいきました。一方で、長崎在宅Dr.ネットにも誘われて、在宅医療に関わるようになりました。正直なところ、このままでは経営として成り立たないという思いでした。

 

──長崎在宅Dr.ネットはユニークな取り組みとして全国的に有名ですね。

安中 入院中の患者が在宅療養を望んでも退院後に診てくれる開業医がいなければ在宅療養は難しい。一方で、24時間365日いつでも対応することは一開業医には難しい。長崎在宅Dr.ネットは病診連携や診診連携を基盤にして、在宅療養を希望する入院患者に対してメンバーのなかから在宅主治医と副主治医の二人を紹介するというシステムで、白髭豊先生を中心に2003年から活動していました。在宅医療といっても私は元々外科医ですから、気管切開とか人工呼吸器をつけた患者さんをみることに抵抗感はなかったのですぐに参加させていただきました。後に在宅療養支援診療所が制度化されて24時間対応が必要になったときも、急性期医療の経験から特段苦もなく対応することができました。長崎に戻ってきてしばらくは急性期病院のお手伝いと在宅医療を並行してやっていたのですが、徐々に在宅医療が忙しくなってきて病院のお手伝いを減らしていきました。


入院ベッドを活用して障がい児医療・福祉にも取り組む

――在宅医療に取り組むことで入院患者に変化がありましたか

安中 患者の在宅療養を進めると、一方で家族の負担が大きくなって疲弊してしまうということが起こります。そんなときに、一時的にせよ他の病院に入院してもらうよりは、当院のような有床診療所がそれを担うのが大事なことだと思います。病院という医療資源の活用のあり方からしてもそうですし、むしろ、有床診療所が生き残っていく道もそこにあるように思います。患者さんの在宅療養により家族が疲れてしまったときには、その患者さんのことを知っている自分の診療所のベッドでみて、また在宅に返す。そうした思いがだんだん強くなってきたので、当院に入院していた社会的入院の方には介護施設に移ってもらいました。

 

――高齢の患者さんが多いのですね。

安中 そういったなかで小児の在宅医療もはじめました。障がい児のお母さんたちはとても一生懸命にケアをしているので疲弊してしまうことがあるのは高齢者の場合と同じです。特に最初のケースはその後を決定づけたと言ってもいいでしょう。初診時はは2歳の重症心身障がい児で医療的なケアが必要でした。何年か経過したある日お母さんから、その子の兄弟と一緒に旅行に行きたいが、その間患児を預けるところがないかという相談を受けました。大学病院が主治医、私が在宅主治医という関係で、普段から大学病院との連携はとれていましたし、訪問診療をしていたために患児のことだけでなくご両親や家庭のことについてもよく知っています。家族の事情で大学病院に入院させるのはよくないので、当院でなんとかならないかと思いました。

 

――障がい児の対応は高齢者とは随分異なるのではないですか。

安中 それゆえスタッフを説得するのにかなりの努力が必要でしたし、そのためにスタッフ教育を行いました。最初はお母さんについてもらって一泊することから始め、徐々にお子さんもお母さんも私たちも慣れていって、とうとうご家族が旅行している間は当院に入院することが実現しました。その後もこのお子さんにはいつでも利用してもらえるように定期的なレスパイト入院をすることになります。お母さんから妊娠したので出産のときだけみてほしいと希望されたときや、お母さんが訪問理容の資格を取るのに試験のときだけみるとか。そうしているうちにスタッフも経験を積んできて他のお子さんもみるようになっていきました。病院との連携がとれていて、私が在宅の主治医だからこそ安心して受け入れられるということも大きかったですね。

私は脳神経外科医だったのでALSのような神経難病の患者の人工呼吸器の医療の経験もありましたし、こうした実績からそういったニーズを持つ人をみることが徐々に増えていき、診療所の経営的にもうまく回っていくようになりました。

 

――診療所のあり方が変わってきたのですね。

安中 その頃の診療所は入院ベッドが二つのフロアに分かれていて使いにくかったので、建物を建て替えることにしました。1階と2階を診療所にして、ベッドは2階に集約し一部を介護医療院としました。また、3階に障がい福祉サービスの生活介護事業所「まあるくよかよ」、4階に介護保険サービスのデイサービスセンター「むかーし、昔。」を開設し、機能に合わせた構造をもつ建物にしたのです。

 

――生活介護事業所とはどのような施設なのですか。

安中 まずは始めるきっかけを言いますと、近隣の障がい者を抱える親御さんが突然来院されて、自分たちの子どもを預かってもらえる施設をつくってほしいと要望されました。ちょうど熊本地震で老朽化した当院ビルが壊れるのではないかという恐怖心があり、新しい診療所に建て替えを検討している時期と重なりました。

生活介護事業所とは障がい者のデイサービスで、医療的ケアが必要な方、重症心身障がい者の方が、介護を受けながら健康維持のための運動やリハビリテーションに取り組んだり、生産・創作活動を体験したりして日中をアクティブに過ごすことを支援する事業所です。障がいをもつ子ども、特に気管切開や人工呼吸といった医療的なケアが必要な重度の人が特別支援学校を卒業した後の受け皿がなく、家族が疲弊していく状況を在宅医療をしながらみていたので、小児医療から成人医療への橋渡しとしての移行期医療(トランジション医療)という意味からも開設しました。また、3階のデイサービスセンターも同様ですが、2階の介護医療院のベッドが空いている場合は、障がい者や高齢者をショートステイとして受け入れることができます。

 

――医療機関が重度の障がい者を受け入れるショートステイを行うのは多くないのではないですか。

安中 市内でも遠方の方も利用されますし、同じ長崎県といっても長崎市と佐世保市は随分離れているのですが、佐世保市の方がぜひ受け入れてほしいとJRで2時間ほどかけて連れて来られます。利用した方の口コミもあり、佐世保市だけでなく島原市から利用されている方もいます。

 

――突然診療所を承継して右も左もわからない状態から、有床診療所の機能を生かしながら外来診療はもちろん在宅医療を通じて、高齢者介護、障がい者福祉を含む形で発展しきたのですね。


新しい構想で建て替えられた医院
新しい構想で建て替えられた医院

質の高い在宅医療の支えとしての学会活動

――所属されている日本在宅医療連合学会のことについて伺います。

安中 先ほどお話ししたように診療所を承継して長崎在宅Dr.ネットに参加しました。当時は、長崎在宅Dr.ネットから在宅医療を受けたいという患者が紹介されると在宅主治医となることを希望する医師が手を上げるというシステムになっていたので、私はどんどん手を上げました。その当時のことで忘れられないのは、貼付剤での医療用麻薬が発売されたばかりで使用法について不慣れだったせいもあり、死期を早めてしまった可能性がある患者がいましたが、逆に家族からは穏やかな死を迎えられたと大変感謝されました。そのときから、自分のスキルのギャップをどうにかしなくてはいけない、勉強しなければいけないという思いが今にいたるまで常にあり、日本在宅医療連合学会に入った動機でもあります。

学会活動をするなかで最近、若い医師らと在宅医療の質を担保するための臨床研究をすることになり、患者、家族へのアンケートを全国的に集めて、仕事が終わった後にオンライン会議をして論文にまとめました。私は医師になって初めて英語論文を書き上げました。学会活動をすることで研究ができて、質の高い在宅医療を目指すことができると感じています。

 

――日本在宅医療連合学会の2025年長崎大会の大会長をお務めになりますね。

安中 長崎在宅Dr.ネットを立ち上げた白髭豊先生と共同で大会長をします。テーマは「在宅医療の未来を語ろう」というもので、良いことも悪いことも含めて在宅医療の過去を抱えて今があるわけで、それを未来に向けてどう進化させていくかということをシンポジウムなどで議論していこうと考えています。

 

――長崎在宅Dr.ネットとして先駆的に在宅医療に取り組んで、制度などにも影響を与えた長崎から在宅医療の未来を構想するというのは意味のあることですね。在宅医療の進化とはどのようなことですか。

安中 私が答えを持っていればいいのですが、わからないというのが正直なところです。日本在宅医療連合学会の特徴は医師以外にも訪問看護師、薬剤師、歯科医師、管理栄養士、リハビリ職などさまざまな職種が集まる学会ということにあります。在宅医療は多職種の活動が大変重要だと思っていますので、そうした方々と議論をしてなにかを提案できるような長崎大会になればと考えています。


同業者とゴルフはしない、遊ぶときは仕事抜き

――ところで、日々お忙しいなかで息抜きというかご趣味はありますか。

安中 昔からファッションに関心があって、特にスニーカーが大好きで集めています。

 

――何足くらいお持ちなのですか。

安中 100足はありますね。履いていないのが20足(か30足)あります。昔は革靴一辺倒だったのですが、ナイキのエアマックスが日本でブームになった1995年頃から少しずつ集めています。ファッションの流れのなかにスニーカーがあったので、その流れに乗って集めただけで、特にポリシーがあるわけではないのです。

 

――ほかにはどんなことをしていますか。

安中 クラブでDJをしています。

 

――東京にいた頃からですか。

安中 長崎に帰ってきてからです。昔から音楽は好きだったのですが、長崎に戻ってきたときにたまたま音楽好きの幼馴染と会って、一緒になにか楽しいことをやりたいねという話になり、地元の伝手をつかってお店を探してDJを始めました。最近はあまりできていないのですが、月に1回くらいのペースでやっています。

 

――診療だけでなく学会活動や研究などもして大変お忙しい毎日と思いますが、スニーカーのコレクションやDJは良い息抜きになっているのですね。

安中 そうですね。ゴルフもするのですが、同業者とはプレーしないと決めています。遊ぶときは仕事抜きというのが大事ですね。

音楽好きが講じてDJも
音楽好きが講じてDJも

全人的医療の実践に在宅医療の意義

――最後に在宅医療の魅力をどうお感じですか。

安中 私が医師になったときは、海外ドラマのERに憧れたりしましたが、とにかく治してなんぼ、どうやって助けるかという世界だったと思います。でも今はそればかりではなくて、自分自身や家族と人生においてどのような最期を迎えたいかなどを考えたり、話し合ったりすることで、人生の最終段階をどれだけ満足度を高くして迎えられるかということも、医療の大切な一部だと思います。また、急性期医療が破綻しないために、われわれ開業医のできることは大きいです。私は聖路加国際病院で急性期医療を経験していますが、それがあるからこそ在宅医療の必要性がわかるし、経験していなければ在宅医にはなっていなかったかもしれません。

聖路加国際病院では全人的医療を叩き込まれました。患者本人も残された家族も悔いのない人生を送ってもらいたい、看取りも含めてそのためのお手伝いを医療者はしなければいけない。そういったところに在宅医療の意義があると考えています。

取材・文/坂 弘康